’80年のケルンショーで大反響を巻き起こし、以後はスズキの代表作として認知されて来たカタナ。同社はこれまでに、さまざまなモデルにこの車名を使用して来たが、スタイリングの継承と発展という見方をするなら、‘19年から発売が始まる新型は3代目のカタナとなる。 ※ヤングマシン2018年12月号(10月24日発売)付録冊子より
日本の武士道を象徴する抜き身の日本刀がモチーフ
たまたまカタナになったのではなく、スズキが当初からカタナとして開発したモデルの系譜は、①’82年型に端を発する初代シリーズとその派生機種、②’84/85年に販売されたGSX750S3/4、③’19年から発売が始まる新型の3種に大別できる。もちろん、中でも最も重要なのは①だ。ほとんどの日本車が今で言うネイキッドだった’80年代初頭において、抜き身の日本刀をモチーフとする初代カタナは、2輪の世界に革命を起こしたのだから。
初代カタナの立役者は、スズキの谷雅夫さんと横内悦夫さん、そしてターゲットデザインの創立メンバー、ドイツ人のハンス・ムートとジャン・フェルストロームの4人である。きっかけは、’79年にモトラッド誌が主催するイベントに参加した谷さんが、MVをベースとするターゲットデザインの作品に衝撃を受けたことで、谷さんは同社に新型車への関与を打診。これを快諾したターゲットデザインは、ミドルネイキッドのED1(後のGS650G)と、カタナの原点となるED2を製作し、’80年8月にはクレイモデルがスズキに到着した。当時の日本の2輪メーカーにとって、こうした取り組み方は異例だが、それ以上に異例だったのは、以後のスズキの迅速な対応だろう。
‘70~80年代に数多くの市販車/レーサーに携わり、名エンジニアと呼ばれた横内さんは、ED2に心から感激したと言う。とはいえ一般的な技術者なら、あまりに先進的な造形に躊躇を感じそうなものだけれど、横内さんはすぐさま量産化を決意。そして翌9月には、ケルンショーでカタナのプロトタイプを公開し、大反響を巻き起こすのである。もっとも、観客やジャーナリストの大半は、カナタはあくまでも、2輪の未来像を提示するコンセプトモデルだと感じていたのだが……。
初公開から1年後の’81年秋になると、スズキはプロトタイプに必要最低限のモディファイを加えたGSX1100Sカタナの市販を開始する。当時は誰もが、“まさかそのまま量産化するとは!”と感じたようだが、前代未聞のスタイリングを実現したスズキの旗艦は、初年度から大ヒットを記録。結果的にカタナは、以後のスズキ躍進の原動力となり、今日ではオートバイの歴史を語るうえで欠かせないモデルとして、世界中で認知されているのだ。
異例の長寿モデルとなった’80年代初頭の旗艦
カタナはゼロから生まれたモデルではなく、開発ベースとなった車両が存在する。それはシリーズの代表作である1100でだけではなく、ほぼ同時期に開発された1000と750、さらには’90年代に登場した250と400にも言えることで、この点は’19年から発売が始まる新型も同様だ。
つまりすべてのカタナは、派生機種という位置づけになるのだが、デビュー当初の1100は、スズキにとってはフラッグシップだった。111psの最高出力は同時代の日本車ではナンバー1だったし、海外のテストでは、当時の市販車で最速となる237km/hをマーク。もっともそういったフラッグシップは、普通は任期を終えたら速やかに退陣するものだけれど・・・・・・。
’84年にGSX1100EF(114ps。後期型は124ps)、’86年に油冷GSX-R1100(130ps)が登場しようとも、1100カタナの生産は続き、販売は’00年まで続いた。その理由はやっぱりスタイリングが秀逸、と言うか、突出していたからだろう。
ただし、一般的なロングセラー車ではごく普通となる数年ごとの仕様変更は、このモデルではあまり積極的に行われなかったし(日本仕様の750は、’82/83年に大幅刷新を受けているが)、19年に及んだ生産期間中に、常に1100カタナが人気車だったかと言うと、必ずしもそうではなかった。
とはいえ、’80年代中盤から緩やかに下降していったカタナの人気は、’90年にデビューしたアニバーサリーモデルで再燃。そして’94年から日本仕様の発売が始まると、以後のカタナは堅調なセールスを示すようになり、’00年に登場したファイナルエディションでは、ついに足まわりを中心とした大幅刷新が行われることとなった。
改めて歴史を振り返ると、どうして’00年まで抜本的な改革を行わなかったのか?、という疑問が湧いてくる1100カタナだが、その背景にはターゲットデザインの仕事を尊重しようという意識があったのかもしれない。
本文:中村友彦
Source: WEBヤングマシン