2009年3月6日。日本最大級の繁華街である銀座のクラブに、日本における最高速の歴史を築いた張本人たちが、30年もの時空を超えてふたたび相見えた。話がはずむ。全員の脳裏に当時の情景が蘇る。さぁ、はじめよう。だれもが真剣で、だれもが命がけで、だれもがスピードに取り憑かれていたあのころの、血潮たぎる魂たちの回顧録を。
目次
登場人物
大川光一
トランザムを駆る“カンブ大川”といえば、当時の東名レーサーたちのあいだでは超ビッグネームだった。トラストは2008年末に退職している。
雨宮勇美
チューンドロータリーを従え、カンブ大川とともに狂走族のカリスマとして青山、東名、首都高、湾岸を第一線で駆け抜けた男。OPTION誌とは創刊当時からの付きあいだ。
吉田栄一
湾岸最高速を牽引しつづける伝説的な走り屋チーム“ミッドナイト”の会長。谷田部全盛期には、Daiとともに911ターボの可能性を追いつづけ、数々の名シーンを演出してくれた。なお、ポルシェ本社によるワークスチューニングが敢行されたカレの愛機が、人気マンガ“湾岸ミッドナイト”に登場するブラックバードのモチーフ…というのは有名な話である。
稲田大二郎
チューニング文化の振興に人生のすべてを捧げる業界の“生き字引”にして、東名レースに端を発する最高速の歴史を、雑誌編集者という立場から客観的に見守りつづけてきた人物。あだ名は“Dai”。また、80年代には谷田部トライアルのエースアタッカーとしても活躍した。
公道が戦場だった時代
稲田:こんなメンツで集まったのなんて、谷田部以来じゃないか?
吉田:そうですね〜。みなさんの顔を見てると、当時の熱い気持ちがフツフツと蘇ってきますよ。
雨宮:吉田くんとは久しぶりだねぇ。カンブ(大川さんのアダ名)やDaiちゃんとは、ちょくちょく会ってるけど!
大川:そうだね。ボクも、吉田くんと会うのは久しぶり。
吉田:ご無沙汰してすみません(笑)。
雨宮:しっかし、みんなジジィになったね〜。オレとDaiちゃんなんて、もう還暦すぎてるし!ヨボヨボだよ!!
一同:(爆笑)
稲田:で、今日集まってもらったのは他でもない、70年代後半からはじまった最高速の黄金時代をみんなで振り返るためだよ。
吉田:てことは、東名レースですか。
雨宮:なつかしい〜。オレがチーム作ってたころの話だかんね。カンブとも毎週のように走りに行ってたっけ。
吉田:なんのチームですか?
大川:“影”って名前の超有名な狂走族(笑)。
稲田:あのチームは“狂”じゃなくて“暴”だったよ。
雨宮:勘弁してよDaiちゃん(笑)。下の連中んことは知らないけど、オレはだれよりも速く走りたかっただけなんだから!とりあえず週末に、亀戸から錦糸町、東陽町、銀座とまわって青山に出るルートで、カッ飛んでたっけな〜。検問突破もよくしたし!
稲田:そういえば、雨さんと大川さんの出会いっていつなの?
大川:雨さんとはじめて会ったのは、ボクが22歳くらいのとき。深川内燃機(日本におけるチューニングショップの始祖)というお店に務めてたころの話ね。で、そこに若かりし雨さんが、お客としてやってきたんだ。
雨宮:オレが26歳くらいで、LBセリカ乗ってたときっしょ。
大川:うん。立川のゼロヨンで勝ちたいから、2T-Gのバルブスプリングを強化してくれってね。
雨宮:ところがどっこい、そのあとゼロヨンにいったら負けちゃってサ! ソッコーで店に怒鳴りこんで「ふざけんじゃねぇ! オマエのせいで負けちまったじゃね〜かぁ!!」って、クレームいったんだ(笑)。
大川:熱い人だな〜って思ったよ。それからかな、付きあうようになったのは。で、しばらくいっしょに立川や新木場のゼロヨンで遊んでたんだけど、1975年くらいに警察の取り締まりが厳しくなっちゃって……。そんなときに、だれかが言い出したんだ。「東名でシロクロつけよう!」ってさ。それが、東名レースのはじまり。(次ページに続く)
70年代前半にヒートアップした公道ゼロヨン。しかしその走り屋天国が長くつづくわけもなく、警察によって有名スポットの幕がつぎつぎに降ろされてしまう。東名レースはそれに代わる第2の天国だった。
東名レースは海老名SAから瀬田・東京料金所までの30km区間で行われていた。
海老名SAに集結する東名レーサーたち。写真はトップスのトヨさん(高橋豊蔵さん)率いるパンテーラ軍団。
あの頃キミは若かった
思わず“ザ・スパイダース”による往年の名曲を口ずさんでしまいたくなるが、ここでは最高速四天王の過去を公開。本人たちは間違いなく赤面するだろうが、当時の彼らを知る読者にとっては、心の奥底に眠っていた熱き思い出が写真を通して蘇るハズだ。
雨さんが33歳、Daiが32歳のころの貴重なツーショット。ふたりとも貫禄バリバリ。
1981年7月号「必殺改造人シリーズ」に登場したときのカンブ大川さん。マジで若い!
1993年1月号「熱血走り屋マシンspl」でのミッドナイト吉田さん。あどけなさが残ってる。
「誰にも負けたくないから、オレはアクセルを踏みつづけてたよ」
雨宮勇美
最速はだれだ!?
稲田:ボクは人づてに東名レースのウワサを聞いた。それで、いろいろと動きまわってるうちに、雨さんや大川さんと交流を持つようになったんだ。吉田くんはまだ出会ってなかった。
吉田:ボクは、当時アメリカンカークラブ(1973年に結成されたアメ車メインの走り屋チーム)に入ったばかりの若造でしたからね。みなさんは雲の上の存在でした。
稲田:アメリカンカークラブって言葉を聞いたのは、何年ぶりかなぁ(笑)。でも、当時は驚いたよ。1ドルが350円とかする時代に、チューニングされた高級外車で東名を突っ走る連中がいたんだから。
吉田:そのなかでも、幹部(大川さんのアダ名はここからきている)の大川さんは別格でしたよ。ブルーのトランザムは無敵でした。
雨宮:あのトランザムは速かったね〜。オレは負けなかったけど!
大川:抜かれるのが大キライだったから、シボレー454のV8積んで500psオーバーまでチューニングしてたの(笑)。
雨宮:あのころのカンブ、キレてたかんね〜。トランザムで前のクルマにブツけながら走ってんだもん!ほんで、あとからブツけたクルマのドライバーに文句いうんだよ。「この野郎! なんでオレのクルマに“ブツけられてんだ”よ!」って(笑)。意味わかんないッス!
大川:人を極悪人みたく言わないでよ(笑)。東名レースは“クルマの喧嘩”だったし、雨さんなんて赤ん坊(雨さんの長女)を股のあいだにはさんでバトルしてたじゃない。アレのほうがヒドイ。『この娘の将来は大丈夫なのかな〜』なんて真剣に思ったし。
吉田:さすがだ(笑)。でも、東名を走ってた人たちは、みんな気合入ってましたよね。雨さんを筆頭に。
稲田:IMC飯島やアウトバーン武田などのポルシェ軍団、トップスの高橋パンテーラ軍団、細木(現ABR)軍団とか、いろいろ濃いメンツが揃ってた。
吉田:最強パンテーラを駆る、ゲーリー光永さん(事故により他界)もいましたね。いまでは伝説ですけど。
大川:いろんなヤツが走ってたよ。日本車はLメカのZが全盛だった。そんななかでも、SS久保チューンのS30Zに乗ってた“大工”は速かったな。
雨宮:いたね!アイツ名前なんていうんだっけ?
大川:……。職業だけで名前は聞いたことがない(笑)。当時はそんなノリだったから。
稲田:大工のS30Zって、3.0Lでサファリヘッド(LYクロスフロー)を搭載したヤツだっけ? いや、ターンフローのスペシャルヘッドだったかな……? とにかく、やったら高回転までまわしててイイ音させてたのを覚えてるなぁ。
「若い子には理解できないだろうけど、全盛期の東名は“命を賭ける”場所だった」
大川光一
雨宮:まっ、速いといっても大体250キロくらいだったけどね。
大川:当時は300キロなんて出るわけなくて、国産車が200〜260キロ、輸入車が250〜270キロくらい。で、トップ連中は、スタート(海老名SA)からゴール(東京料金所)までを4分ソコソコってかんじ。
稲田:そうなると、やっぱ光永さんのパンテーラの速さはズバ抜けてたんだな。
雨宮:アレは速かった。いちどカンブが運転するトランザムの助手席に乗って、ゲーリーを追っかけたことあるんだけど、直線区間で“ズバ〜ン!”って引き離されたもん。遠ざかっていくパンテーラのケツをにらみながら、カンブは「あの野郎〜ちっくしょ〜ブローしちまえ〜」とか、ブツブツ怒ってたよねぇ(笑)。
大川:悔しかったんです(笑)。そのあと「何キロ出てた?」ってゲーリーさんに聞いたんだけど、そしたら「300キロ出た!」とか言い出しやがってさ。「な〜に寝言いってんだ」って怒ったんだけど……。
吉田:1981年の末に、OPTIONの谷田部テストで初の300キロ超えを達成しましたよね(笑)。
大川:そう! ホントにブッたまげた。「あぁ、あのとき言ってたことは本当だったんだ」って。
舞台は東名から湾岸へ
吉田:雨さんは当時、SA22Cでしたっけ。
雨宮:そっ、13Bペリのやつね。250キロくらいで走ってたと思うよ。その次がシャンテの12Aロータリー。
大川:エスエーは、よくクラッシュしてたね(笑)。
稲田:一回、ボクが見てる目の前で飛んでったことがあった。
雨宮:カンブがトランザムで、Daiちゃんがパンテーラの助手席に乗ってたときっしょ? 覚えてるよ〜!! オレがパンテーラを抜かしにかかったんだけど、ちょっと無理しすぎてスピンしちゃったんだ。
大川:で、そのまま多摩川の橋にドカ〜ン!
稲田:ビックリしてみんなで救出に行ったんだけど、雨さんはピンピンしてた。で、そのままクルマに乗り込んで、ブッ壊れたクルマを料金所までガタガタいわせながら走らせてったんだ(笑)。あれには笑ったよ。
雨宮:ギャラリーが多かったから、恥ずかしくてさ〜。1秒でも早くその場を去りたかったんだよ。でも、あの当時はみんなそうだったじゃない。走っては壊して直してはまた走る、の繰り返し!
大川:ギャラリーの数はたしかにスゴかったよ。海老名SAはもちろん、コースサイドにまで見物族があふれてたし。
吉田:中央分離帯や高速バスの停留所にまで、ギャラリーがいたほどですからね。あの光景は壮絶でしたよ。
稲田:集合地点の青山エンドレス(青山三丁目にあった喫茶店)も、夜9時をすぎると東名レーサーやギャラリーでイッパイだったよね。それこそ、青山通りがチューニングカーで埋め尽くされるほどに。
雨宮:そんで、オレらが青山エンドレスから首都高に向かって走り出したら、みんなも一斉にゾゾゾッて動き出してさ。100台以上いたんじゃない!?
吉田:もっと多かったかもしれません。でも、結果的にそういったことが原因で東名は走りづらくなってしまったんですよね。
大川:いちど、ギャラリーを巻き込んだデカイ死亡事故があったんだよ。それをキッカケに警察の取り締まりがきびしくなって、だんだん走るヤツラも減っていった。80年代中盤だったかな。それからは…。
雨宮:湾岸っしょ。
稲田:そう。谷田部が盛り上がってた時期だから、そっちに専念する人間も多かったけど、生粋のストリート派は湾岸や首都高に戦場を移したんだ。(次ページに続く)
東名レース全盛期のようす。コースサイドや中央分離帯には大勢のギャラリーであふれ返っていた。「危ねぇったらなかったよ!」とは雨さん。
東名レースを駆け抜けた国産車の主役は、やはりL型とロータリー。ポルシェをはじめとする輸入車チューンド勢と、はげしいバトルを毎週のように繰り広げていた。
東名最速RUNNERS
光永パンテーラ
伝説である。シボレーLS7(7.7L)のV8ユニットを600psまでチューニングしたモンスターは、1981年11月の谷田部テストでストリートカー最速の307.69キロを樹立した。
大川トランザムSPL
当時、東名最速とまでいわれたマシン。パワーユニットは500psを発生するシボレー454のV8ユニット。カンブ大川みずからが仕上げた究極のプライベートチューンドであった。
RE雨宮RX-7
写真は1981年のOPTION谷田部テスト時のもの(13Bサイド+KKKターボ仕様)。東名レース初期は13Bペリ仕様で集団の先頭を駆け抜けていた。この頃からロータリーひとすじなのである。
RE雨宮シャンテ12Aターボ
谷田部テストで最終的に240.48キロという尋常ではない記録を叩いたマシンだ。写真はキャノンボール時のもの。
IMC飯島ポルシェ
初期の東名レースを盛り上げたポルシェ軍団の筆頭。ブーストアップが敢行された911ターボは、谷田部テスト初登場(1981年)で260キロを突破する偉業を達成し、その実力を見せつけた。
アウトバーン武田ポルシェRSR3.5
ポルシェマニアの武田さんが作り上げた3.5Lのスペシャルマシン。速さもさることながら、かつて東名で警察による一斉摘発があったとき、カレは愛機をその場に置いて帰宅したという逸話がある。
「雨さんや大川さんの背中を追って、ボクはミッドナイトを立ち上げたんです」
吉田栄一
ミッドナイト伝説
雨宮:湾岸では、やっぱ吉田くんとこのチームがイチバン有名だったよね〜。オレも一時期はいってたし(笑)。
吉田:ビックリしましたよ。ある日、仲間から「雨さんがミッドに入会したがってる」という話を聞かされて「ウソ〜!?」って。
雨宮:速い子が多かったし、楽しそうだったからさ!
吉田:でも、雨さんにはいろいろアドバイスを頂いたりして……、ホント勉強させてもらいました。
大川:ミッドナイトといえば、山田ってのがいたよね。たしかABRチューンのS130ツインターボ乗ってて、いつも愛車をピッカピカに磨いてたっけ。
吉田:ええ、初期メンバーのひとりですね。
雨宮:けっこう速かったよね、カレ。キッチリ踏んでたしさ。
大川:何度か湾岸で追いかけまわされたことがあったんだけどさ。そのたびに路肩を走って、ヤツのZめがけて石を巻き上げてやったの覚えてる(笑)。
雨宮:あぁ、オレもそれよくやった!
「あの頃を生きた最高速ランナーは、みんな“魂”で走っていた」
稲田大二郎
稲田:ところで、ミッドナイトっていつ結成したんだっけ?
大川:たしか、東名レース全盛期にはもうあったハズ。ミッドナイトのステッカーを貼ったポルシェを見たから。
吉田:はい。チームの立ち上げは1982年です。雨さんや大川さんに、すこしでも近づこうと思って…。
雨宮:近づくどころか、オレ湾岸で一度抜かされちゃってるし(笑)。
稲田:吉田くんの911ターボは、ポルシェ本社が手を入れた正真正銘のワークスチューンドだからね!あれはスゴイよ。
吉田:でも、谷田部では最後まで結果を残せなかった…。目標は200マイルオーバーだったにもかかわらず、302キロでしたから。もちろん、最初から最後(1982年〜1992年)までアタッカーを務めてくれたDaiさんには感謝してますよ。最後の年に、ボクのためだけに谷田部を借り切ってくれたことは一生忘れません。
稲田:10年ものあいだ、愛車の可能性に賭けて、夢を見続けるヤツなんてザラにいない。なにより、あのポルシェには不思議な魔力があってさ。どうにかして記録を出してやりたいと思ってたんだよ。
大川:あの911の存在に関しては、記録よりも記憶だよ。
雨宮:それに、谷田部で記録を出すのって本当に難しいんだから。オレだって、目標の300キロ超えを達成するまでには、丸4年の歳月がかかったんだよ!? たまんね〜っての!
稲田:雨さん、悩んでたもんね。「なんで出ね〜んだ!」って。RS山本と大川さんがいたトラスト、そしてRE雨宮は最高速御三家と呼ばれてたんだけど、そのなかで300キロを超えてなかったのが雨さんとこだけだったから。
吉田:記録達成時って、やっぱりこみ上げてくるものがありましたか?
雨宮:いや〜、あのとき(1985年1月)は13Bサイド+ツインターボのSA22Cだったんだけど、記録が出た瞬間はウレシイというより、背中に重くのしかかっていたものが吹っ飛んだような気持ちだったね…。
大川:ボクもTD06ツインターボのソアラで300.5キロを出した瞬間(1984年12月)は、そんなかんじだった。
稲田:大川ソアラね(笑)。見た目ふつうのストリートチューンドが大台を突破したもんだから、当時はメチャクチャ話題になった。
吉田:アレはインパクトありましたよ。
雨宮:あのソアラとは、よく首都高で勝負したね〜。オレはTD07S組んだFCだったっしょ。
大川:箱崎ジャンクションの手前でハデに横転したFCね(笑)。
一同:(大爆笑)
雨宮:カンブ〜、あんときはサスガにやばかったんだから!! マジで死ぬかと思ったんだよ!?
稲田:雨さんは事故じゃあ死なないよ(笑)。
雨さんの珍道記
大川:よくよく考えてみると、300キロの競走がはじまったのって湾岸からだったよね。事故も多かったけど。
吉田:ええ。もうアメ車やイタ車では勝てないから、国産とポルシェの一騎打ちになってましたから。
雨宮:ディズニーランドんとこの左コーナーを、260キロオーバーで突っ込んでくんだもん。ポルシェ以外の外車で、国産チューンドについてこれたヤツなんていなかった。
稲田:時期的に谷田部全盛期と重なるからな、湾岸は。いま考えると、あのころって双方がうまくリンクしながら、日本車チューニングの技術が飛躍した『成長期』だったんだよ。そしてBNR32がデビューして、その流れはさらに加速して…。
大川:320キロ時代が到来した。チューニング業界にとっての黄金期は、そこからはじまったんだよね。
雨宮:でも、湾岸の盛り上がりかたは東名なみにスゴかったよね。市川PAにはギャラリーが溢れ返ってて、クルマを動かすのも大変だった。ショップのデモカーもたくさんいたっけ。
吉田:市川の某ファミレスは、走り屋が占領するもんだから、出入り禁止になりましたもんね。
大川:湾岸で忘れられない事件といえば、トラストのデモカーだったGT-R(BCNR33)を雨さんにレンタルしたときのことだね。雨さん、助手席にだれかを乗せたまま湾岸から丸見えのラブ□テルに入っちゃったの!!
雨宮:そーそー。んで、カンブに電話したんだよね。
大川:…そうだよ。『カンブゥ、ちゃんとトラストの宣伝しといたからさ!ヘヘヘ!!』って。ゾッとしたね。で、『これは夢だ、忘れよう…』と思った。
雨宮:若気の至りってやつッス(笑)。
稲田:雨さんは昔から変わんね〜よなぁ。大川サンから借りたグレッディRX(BNR32:トラストの伝説的デモカー)で、フェラーリ軍団をアオリまくったこともあったじゃない(笑)。
大川:あんときも大変だったんだよ〜。アオられたフェラーリ乗りから会社に電話がきてさ。「告訴してやるゾォ」なんて脅してきやがって。
雨宮:それも若気の至りッス。
狂走族であるかぎり
吉田:あの当時ってみんな何事にも必死でしたよね。とかく、走りに関しては命を賭けていた。
雨宮:変な話、死んじゃうヤツもいたからね。でも、だれもそれを笑わなかったし、間違ってるとも思わなかった。大好きなクルマで前だけを向いて走れれば、それでよかった。だからこそ、生活費を切り詰めてでもクルマのチューニングに心血を注いだんだ。
稲田:今の若い走り屋たちにはバカげてると思われるだろうけど、あの時代を生きた最高速ランナーたちは、みんな“魂”で走っていた。そして、それが本当にカッコよかったんだ。
大川:最高速って、アナログの世界なんだと思う。“根性で踏む”とか“命がけで勝負する”なんて精神論、いまどきの若いコたちには理解できないでしょ。でもあの時代はそれがすべてだった。
雨宮:オレは今でも湾岸を走ってるけど、追っかけてくる元気なヤツはほとんどいないね。「雨さんは速いからついて行けない」なんて言われるけど、昔のヤツラはちゃんとついてきたし、ブチ抜いてくヤツもいたんだから。やっぱ気合が足りない。
吉田:雨さんほど気合入ったヤツなんているんですか?
雨宮:オレもう63歳だよ!? ヨボヨボだよ(笑)。
稲田:なんていうかな、堂々と“最高速をやれ!”とは言わないけど、時代に関係なくクルマが好きならスピードに魅せられて当然。だったら、その欲望に真正面から向きあってみてもイイんじゃないか? とボクは思う。
吉田:そして走る以上は、真剣に攻めてほしいですよね。
大川:アレコレ御託をならべるくらいなら、考えずに全開で突っ走れってこと。
雨宮:そっ。オレたちはしょせん世間様からは認めてもらえない、狂走族なんだから!
90年代目前にして最高速ステージは東名から湾岸へと変わった。その後、国産チューンドの進化によって、いつしか湾岸では300キロの攻防戦が繰り広げられるようになったのだ。
東名レース末期のようす。80年代中盤あたりからスタート地点の海老名SAには警察官の姿が目立つようなった。東名レースはその直後に終わる。
RE雨宮が1987年に製作したロータスヨーロッパSPL。ドライサンプ化された13Bをミッドに搭載した夢のスーパーチューンドだ。雨さんはこのマシンの完成直後にミッドナイトに入会した。
湾岸とともに盛り上がったのが首都高。OPTIONも創刊直後(1981年12月号)に取材を敢行している。当時のラップタイムは「トランザムで7分くらいだったかな」とのこと。
雨さんは、いまでも時間さえあれば湾岸へと足を運んで全開で走る。還暦を過ぎようとも、チューニングカーに対する想いは、あのときのままだ。
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Source: clicccar.comクリッカー