数ある2ストロークレプリカの中で最も成功したモデル、それがNSR250Rだ。最も速く、最も売れて、今なおサーキットや街中で元気な走りを目にすることができる稀有な存在。その実力と実績はまさに伝説と呼ぶにふさわしい。4ストロークに強いこだわりを持つホンダから、伝説の2ストレプリカがいかにして生まれたのか。開発責任者に当時を振り返ってもらった。 ※ヤングマシン2015年9月号より
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やってみなけりゃ分からない、作ってみなけりゃ分からない
メーカーの開発者にとって、それは夢のように幸福な時代だった。そのような時代に生まれたバイクたちは、私たちユーザーにもまた、夢のような幸福を授けてくれた。若くて、熱くて、勢いがあった、あの時代。NSR250Rは、その象徴のような存在だ。
NSR250Rが生を受ける、少し前──。池ノ谷保男がスクーターの開発に携わっていた頃は、HY戦争の真っ只中だった。そして2輪業界の覇権をかけたホンダとヤマハの出荷競争は、主にスクーターを舞台に繰り広げられていた。盟主の座を奪い取ろうと全力でぶつかってきたヤマハに対して、ホンダも戦いを受けて立った。シェアをもぎ獲るために数多くのスクーターが世に放たれ、「1円でも安く」というコスト競争も熾烈を極めていた。池ノ谷ら開発者たちは、まさに大わらわだった。戦いの最前線──営業の現場からは、「とにかくタマ(新商品)を持って来い!」という叫びが聞こえてくる。池ノ谷は一兵卒として、ひたすらスクーターを作り続けた。設計、試作、テスト、そして製品化が、恐ろしいほどの短時間で繰り返される。大きな負荷はかかったが、それをバネに開発者としてレベルアップするには、またとない機会でもあった。
やがて池ノ谷は、HY戦争の末期である’82年に発売される、リードのエンジン開発プロジェクトリーダーを任されることになった。「設計者だからと言って、図面だけ引いていればいいわけではありませんでした」と、池ノ谷は当時を振り返る。「実際にモノを作り、それを手にしながら『ああでもない、こうでもない』とアイデアを出して行く。みんなが職域を超えて、ひとつになっていました」。特に2ストロークエンジンは、「やってみなければ分からない」「作ってみなければ分からない」という、なかなかの難物だった。「エンジンの吸排気に関する理論が、なかなか当てはまらないんです。実際にチャンバーを作って、ポートタイミングとのマッチングを確認してみなければ、どうなるか分からない。もう、泣くほどテストしましたよ」。
’83年、ヤマハの小池久雄社長の敗北宣言をもって、HY戦争は終結した。しかし開発者たちの間には、まだその余熱が残っていた。そんな折に池ノ谷が手がけたのが、7・2㎰の水冷エンジンを搭載したスポーツスクーター、ビートだった。フロントフォークにはスタビライザー、エアインテーク付きフロントドラムブレーキ、そして足踏みペダルでエンジントルクを2段階で切り替えるV-TACS……。「枠に囚われず、面白いモノを作ろうぜ」「他と違ったモノを作ろうぜ」。熱を帯び、若さにあふれた時代を背景に作り上げられたビートは、実に気概に満ちた一台だった。
失敗をバネに加速したホンダの2スト技術
HY戦争にこそ辛勝したホンダだったが、どうしてもヤマハに勝つことができない、トラウマのようなカテゴリーがあった。それは、2ストロークスポーツモデルだった。池ノ谷は「出しても出しても市場に受け入れられなかった」と苦笑いする。ホンダには、「我々は4ストローク屋である」という自負があった。創始者の本田宗一郎からして、機械的に正確に制御できない2ストロークエンジンを忌み嫌っていた。「だから我々は、2ストエンジンの高度な技術を持ち合わせていなかった。ノウハウもなかったんです」。
HY戦争の最中に発売されたヤマハRZ250は、2ストロークスポーツというカテゴリーを一気に押し広げようとしていた。もともとヤマハは2ストエンジンが強みだったのだ。一方のホンダは、’70年代初頭から2ストモトクロッサーを開発してはいたが、RZが発売された’80年時点では、ホンダ初の2ストロークWGPマシン・NS500の開発すら始まっていない。当時のホンダにおける2ストロークは、4ストを信奉する宗一郎から隠れた影の存在に過ぎず、2ストの高出力エンジンに関する技術的ノウハウを蓄積するまでには至っていなかった。RZに引きずられてあわててリリースしたMVX250Fも、スポーツ性をさらに高めたNS250F/Rも、ヤマハを始めとするライバルに一矢報いることはできなかった。それどころか、市場の評価は「焼き付きやすい」「オイルを噴く」「うるさい」など散々で、ホンダのプライドを大いに傷付けるばかりだった。しかし、ここでの失敗は決して無駄にはならず、確実にホンダの技術的資産となっていった。
’85年の暮れ、当時はインド向けスクーターの開発などを行っていた池ノ谷に、「NSR250RのLPLをやれ」という社名が下った。ラージ・プロジェクト・リーダー、つまり開発責任者の座を任されたのである。プロジェクトはすでに動いていたが、池ノ谷にはそれまで以上にチームをまとめる役目が期待されていた。池ノ谷はさっそく、前身にあたるNS250Rに乗って朝霞の研究所を出発し、真冬の関越自動車道を走ってみた。市場が評するように、確かにうるさい。オイルも噴く。でも、速い。問題が山積していることが分かったが、それ以上に、「やりようはあるな」と、猛烈な寒さの中で思っていた。
チャレンジャーとして先達から学べるだけ学ぶ
ホンダは’82年、2輪モータースポーツの専門会社として、HRC(ホンダレーシング)を設立。レーシングマシンの開発を中心とした活動を開始し、ホンダ本社からは独立したレース会社として多くの実績を挙げていた。そして池ノ谷がNSR250RのLPLになった時、すでにHRCのファクトリーレーシングマシン・RS250RWをフルレプリカする、という方針は定まっていた。
HRCは本田技研工業から独立しているとはいえ、当然のことながら出資を受けている関連会社だ。相互の連絡は密である……かのように思える。しかし、独立心が強く、プライドも高く、レースでの実績も挙げているHRCは、そう簡単に技術ノウハウを市販車開発に譲り渡さなかった。池ノ谷は、NSR250R開発のトップとして、まずHRCの面々と親しくなることを心がけた。「とにかくしつこく聞きに行かない限り何も教えてくれませんからね、彼らは」と苦笑いする池ノ谷。実は池ノ谷は、後にHRC社長の座に就く。そしてHRC側の立場になってみた時、HRCはHRCで限られた体制の中でレースに全力であり、市販車開発に協力してばかりはいられない、という事情は理解できた。しかしそんなことを知らない当時は、「HRCってのはケチだなあ……」と思いながら、そのノウハウを得ようと必死だったのである。毎日のように試作課に顔を出し、世間話をするところから始めた。野球の話など、本当に何でもない話だ。そうこうするうちに、キーパーソンを見付ける。その人と友達になり、どうにかノウハウを手にしていくのだった。
そして、見習うべきはHRCだけではなかった。2ストエンジンに関しては一日の長があるヤマハのTZR250や、その他のライバルモデルを徹底的に研究し尽くした。「ライバルモデルを研究するうちに、気が付くんです。ピストンは断面が真円じゃなくて微妙に卵の形をしてる、とかね。我々がよく分かっていなかった細かい技術が、たくさん投入されていた。『これは敵うわけがないな』と思いましたよ」マネと言われることに、まったく恐れはなかった。「完全なオリジナルなんて、そうそう作れるものじゃない。発想は他を参考にしても、それよりいいモノを作ってしまえば勝ちだ」。海外由来の技術を丹念に進化させ、オリジナルを凌駕してきた日本の技術者たち。そのマインドは、池ノ谷の中にも色濃く受け継がれていた。
レーサーの品質を市販車へ外から見えない地道な努力
HRCやライバルモデルから技術的なノウハウを得ることは、ゴールではなく、NSR250R開発の最初の1歩にすぎなかった。参考にしようというファクトリーレーサー・RS250RWは、言うなれば「究極の1点モノ」だ。勝つことのみを目的に描かれた図面をもとに、最高レベルの素材を用いて、手に高い技術を持った職人的な開発者が、ひとつひとつのパーツを吟味精査しながら、完璧に仕上げていく。ミクロン単位で精度は高められ、徹底的に研磨して無駄を削ぎ落とす。モノ作りの中でも最高峰とされる「手組み」が、当たり前のように行われている、極めてシビアな世界だ。試作品は、図面以上の出来映えになることも珍しくはなかった。しかし市販車はそうではない。コストも視野に入れながらの大量生産が大前提であるから、使える素材は常に最高レベルとは限らない。また、職人の手により1台1台を生産するわけではなく、あくまでも工場のラインに乗せるための機械工作を考慮しなければならない。
NSR250Rの見本は、「バイクの理想型」であるファクトリーマシンだ。しかし作らなければならないNSR250Rは、現実的な市販車である。理想と、現実。その大きなギャップを埋めるのは、リーダーである池ノ谷が、泥臭く駆けずり回って構築した、人間関係でしかなかった。浜松製作所は、NSR250Rの製造を担当した工場である。その工作精度は、レースで勝利するために究極を求めるHRCのそれと比べ、決して高いとは言えない。市販車を作るレベルとしては十分以上だが、RS250RWのフルレプリカを標榜するNSR250Rを製造するには、不足があった。
例えば、クランクシャフトの圧入をとっても、超高精度に作られたパーツをひとつひとつ丹念に手組みするHRCの手順を、できるだけ近い形で大量生産工場で再現しなければならない。「図面やマニュアルには書けない、ドえらいノウハウがあるんですよ。それをどうにか浜松製作所で実現してもらうのは、とても大変だった」。製作所には製作所が長く培ってきた技術があり、プライドもある。池ノ谷はHRCに対したのと同じように、足繁く製作所に通い、世間話をし、時には酒を酌み交わしながら、どうにか自分たちのめざすモノ作りを理解してもらった。やがて製作所の人たちも、「まったくおまえらは、無理ばっかり言うんだから」とボヤきながらも、全面的に協力してくれるようになった。
しかし、ひとつの工程を実現するために専用の治具をゼロから作るなど、手間は膨大だった。さらに、「レースを走り切ればいい」とギリギリを狙っているファクトリーマシンに近い性能を、さまざまな走行条件下で、さまざまなレベルのライダーが乗っても発揮しながら、十分な耐久性が求められるのである。2ストエンジンに関する技術的ノウハウが豊富とは言えなかったホンダにとって、2ストの雄であるファクトリーマシンの技術をストレートに落とし込んだNSR250Rの量産は、外から見える派手な成功以上に、足元からの地固めが必要な、壮大なようで極めて地道なチャレンジだったのだ。
時を経ても変わらずに愛され続ける理由
若くて、熱くて、勢いがあった、あの時代。それは、失敗が許される時代でもあった。池ノ谷は、開発者としての自分に、5つの行動指針を課していた。
「世界初をやれ」
「自分の欲しいものを作れ」
「人を驚かせ、感動させろ」
「利益を気にするな」
「レースで勝つには、金と執念だ」
いずれも、少しでも失敗に怯えていては、そもそも指針として掲げることすらできない。池ノ谷は、NSR250Rの開発責任者として、失敗を恐れることなく5つの指針に向けてまっしぐらに突き進んだ。そして最強と呼ばれ、今にいたるまで長く愛され続けるNSRの礎を作った。それはしかし、池ノ谷ひとりで成し遂げられたものではない。池ノ谷の場合は、周囲の人をうまく味方につけるという泥臭いやり方で、思いを形にしていったのである。
「ホンダっていう会社には、私みたいな跳ねっ返りを受け入れてくれる素地があるんです。安全パイを狙うぐらいなら、失敗してもいいから思い切ってやってみる。そのことの方がずっと評価される会社なんですよ」。その言葉は、今の、そして未来のホンダ開発者たちに向けられているようでもあった。NSR250Rは、あの時代の象徴であり、時代が変わっても変わらずにあるべき、ホンダイズムの象徴なのだ。
文:高橋剛
インタビュー撮影:長谷川徹
取材協力:本田技研工業
Source: WEBヤングマシン