「東名全開族25時の狂走曲 サタディ・ナイト・ラプソディ」…なんとまぁOPTIONらしい過激なタイトルです。この記事は当時、問題視されていた「東名全開族」とはどんなものなのか?の覗き見実録レポートです。東名全開族とは、OPTや他クルマ雑誌が名付けたもの。走っていたのは…RE雨宮・雨さんやTRUST大川さんたちの本気の全開走りに憧れる若者たち。
が、今から約15年ほど前、雨さんや雨さんの走りの仲間の方たちに80年代の走り屋時代のことをインタビューしたとき、「この頃にはもう東名は走ってなかったッスよ」と言っていました。雨さんたちは「ただ、仲間内で勝った!負けた!!と、走りを楽しんでいただけだった」と。バトルしてドーノとか、毎週ナン曜日のナン時に集合してドコドコでUターンしてゴールはドコとか、そんなことは「してないんだよね~」と語っていました。「確かにそれ以前は東名を走ってはいたけど、この時代になると走るクルマやギャラリーが多過ぎちゃって、安全に走れるような状態じゃなかったからね」と。
じゃ、この東名全開族はなんなのでしょうか? それは、雨さんたちに憧れ、チューニングをしていてもしていなくても、とにかく雨さんたち「みたい」に走っていた人たちなのです。だから、この時代の中には、雨さんたちが走る姿はありません。大体、雨さんたちは集団走行をしたことなど一度も無いのです。「凄い走り屋たちがいる!」「雨さんの走る姿を見たい!」「オレたちもいっちょ走ってみっか!」…噂がウワサを呼び、勝手で危険な走りをし始め、東名高速上にクルマを停止させて見学…。そんな危険な状態になってしまっていた、当時の東名全開族たちの姿です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
東名全開族25時の狂走曲 サタディ・ナイト・ラプソディ
血潮たぎる魂、熱き全国の真の走り屋に訴える・・・
最高速時代のプロローグ
いったい、いつ頃からだったろうか? 東名最高速ランナーの噂が一部の走り屋たちの間で囁かれるようになったのは。土曜日深夜、東名上り線・海老名SAから、瀬田・東京料金所までの約30kmを全開で疾駆する。関東の走り屋/チューナーにとって、それは、密かに最高速にトライできる、限られた空白帯だった。深夜のトラック便も、その時間だけは途絶えるのだ。
そこでは「チューニングでン100ps出ている」かは問題にならなかった。どんなに口でチューンの凄さを主張しようとも、走って本当に速いか否かがすべてだったからだ。要求されるのは、パワーもさることながら、確かな足まわりと、真の空力的リファイン…。
パンテーラ、ポルシェ、Z、RX-7…お馴染みな関東の最高速マシンたちである。が、その速さには確かな裏付けがあった。そのほとんどが。東名テストコースで磨き抜かれたマシンたちだったから。
ところが…、最近「オイ、この頃、土曜の夜の東名、スゴイらしいゾ」「もうアソコは終わったよ。本当に走れなくなっちゃったね」、そんな声があちこちから聞こえてきたのである。「ここのところ、ずっとSAでパトカーが張っている!」となれば、もう穏やかではない。東名ウイークエンドの空白ゾーンは、完全に変質してしまったようだ。
TIME NOW! 1983年夏
宴は24時を期して、幕を開けた。続々とSAに走り込んでくるクルマとともに、赤色燈を点滅させたK察車両がオープニングを彩る。時計の針と共に、パーキングスペースはみるみる埋まっていく。いずれもノーマル車ではない。SAはさながら、真夜中のストリートカーショーの会場と化した。外車勢では、チューンド・パンテーラはもとより、ドレスアップしたAMGベンツ、コルベット、ポルシェ、ロータスらも姿を見せ、国産車もZ、RX-7をはじめ、新旧スカG、セリカ、はてはマークⅡなどのセダンまでが舞台に登場する。パーキングスペースからみても、台数は軽く200台を超えた。
24時30分、6~7名のK察官が、記録ボードを手にエリアを回り始めた。片っ端からマシンのナンバーをチェックしていくためだ。それは奇妙な光景だった。K官と参集者はお互いに強く意識しあっているにもかかわらず、その存在を無視しあうのだ。異様な雰囲気の中、K官は派手な改造車を見ても、何も言わなかった。
25時。チェックもひと段落した頃、エリアは急にあわただしいエンジン音に包まれはじめる。定員乗車に近いクルマが、ひと足先にきたるべきクライマックスの観戦場所を求めて出て行くのだ。主役たちが群れをなして飛び出していったのは、そのすぐ後だった。OPTでは、試しにコース途中にスピードガンをセットしてみたが、群走のため、計測は不能! 焦点を絞れず、苦し紛れにスピードガンがポッと表示した数字は、156km/hにすぎなかった。それはもはや、かつての最高速トライとは別種の全開ショーだった。見物車はバスストップからあふれ出し、恐るべきことには、なんと高速道路の中央分離帯にまで観客がいたのである!
26時。ガランとした海老名SAに、取り残されたようなK察車両がむなしげに、なおも赤色燈を点滅させていた・・・。1983年6月。
「命はひとつ・・・」ライトで浮かび上がる陸橋上の文字は、あまりにも象徴的
瀬田・東京料金所を出て、ショーは終わった。時間にして10分余の、思えばあっけない幕切れ。ショーチャージ、東京からの往復2000円。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今では考えられない危険度MAX! でも、これが現実だった時代。OPTをはじめとした雑誌屋が記事として取り上げ煽ったから?かもしれません。が、その時代時代に起こっていたことの事実を伝えるのが、雑誌屋の使命でもあるのです。
【OPTION 1983年8号より】
(Play Back The OPTION by 永光やすの)
あわせて読みたい
Source: clicccar.comクリッカー