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『最後の革新者』山本健一・元マツダ株式会社会長の思い出/山口京一【RE追っかけ記-特別編2】

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1962年暮、山本健一部長が組織し、指揮する新部門RE研究部が始動します。設計、調査、実験、材料の4課構成で、総員数から『47士』のニックネームで知られます。

RX-7 FC発表当時の山本健一社長と歴代 RE開発リーダー。左端:達富康夫エンジン設計部長は、1989年ルマン24時間レース後のパドックで優勝のための100psプラスを約束した。中央右:黒田尭研究開発本部長は2代目RE研究部長で、達富さんとともに『RE47士』、右端:大関博第5エンジン(RE)設計課長は48人目の志士。

ライセンサーNSUをはじめ世界のRE開発者に『悪魔の爪痕』と呼ばれたハウジング波状異常摩耗をアルミ合浸カーボン・アペックスシールで解決したマツダは、一挙に乗用車RE化に進みます。松田恒次社長と後継松田耕平社長の執念といえるでしょう。少量手組みの初代コスモスポーツから一挙にファミリア、カペラ、サバンナ、ルーチェと派生車、そしてピックアップトラックからミニバスまで REを搭載しました。コンセプト、プロトは、軽乗用、リッターカー、大型セダン、そしてジャガーEタイプ、シボレー・コルベットを標的としたスーパースポーツまでありました。

サンフランシスコの発表翌日、シアーズポイント・サーキットのメデイア試乗会成功の乾杯で山本健一・先進技術担当専務と。山本専務背後にマツダ車を鍛えた増田忠之・実研部長。

アメリカでメーカー群を戦々恐々させたのが通称『マスキー法』大気清浄法規制ですが、マツダはいち早くREによる適合を発表しました。そこに、2度の石油危機が襲来します。REの排気対策は、サーマルリアクターなる、濃い混合気排気を2次空気導入で再燃焼する方式でした。当然、燃費には不利になります。米環境保護局はREをガス食いと評しました。マツダにとり不運なのは、REがスペシャリティではなく、全車種搭載だったことです。REフィールと性能で一挙にイメージを創り、そのイメージゆえに苦悩することになります。

シアーズポイント試乗会監督がF1ドライバーで同サーキットでレーシングスクールを主宰していたボブ・ボンデュラントで、往時のルマン式スタートなる接待で迎えた!

マツダは粘りを発揮します。アメリカ市場踏み止まりに打ち出したのは、『スゴイ小さなクルマ』頭文字GLC(日本名ファミリア・ハッチバック)と性能に振り、装備を省いたRX-3 SP(12Aエンジン搭載サバンナ・クーペ)でした。日本のツーリングカーレースでスカイラインGT-Rを王座から追い落としたモデルです。次がスポーティクーペ、2代目コスモです。アメリカではV8には追いつきませんでしたが、日本ではREフィーリングが排気対策による性能低下に不満を抱いていた人たちにアピールし、貴重なヒット作となります。

この時期、山本健一さんは先進技術担当役員なる、多分に名誉職的地位におられました。不遜のようですが、私にとっては至福の時期でした。RE部長、役員期は、長くても1時間お話を聞いたのですが、倍、いやそれ以上、技術、世界情勢、経営など多岐にわたりご教導いただけたのです。RE電子制御のお話中での「フリップ・フロップ」、精密なスイッチングのことですが、妙に記憶に鮮明です。

再建のために住友銀行から派遣された役員は、手頃な価格のスポーツカーこそREに最適と山本さんに提案したと伝えられています。のちにレイアウト、デザイン担当となる松井雅隆役員の言葉です。「われわれの中では、スポーツカーはどんな乾いた時期でも砂漠の下の水脈のように流れ続けていた。」事実、スポーティクーペからスーパーカー、ミドシップエンジン車まで、無数のスケッチ、図面が描かれ、複数がモデル化されてきました。

そして実現したのが1978初代RX-7 SAでした。REで失った市場挽回ではなく、あたらしい市場を開拓したのです。シアーズポイント・サーキットの山本さん、ほんとうに嬉しそうなお顔でした。

1977年、マツダ本社が高度にチューンした13Bエンジンをフジグランチャンピオンシップ・シリーズに投入すべく購入したのがマーチ75S。片山義美マーチのシェイクダウン中に試乗したのがポール・フレール。小早川隆治広報部員(当時、のちに RX-7 FD主査、ルマン・マツダ代表)と筆者が立会い。グランチャンはスプリント型レース。

マツダ社長に就任された山本さんからいただける時間は半減しますが、要点を突かれました。「われわれは、ニコラス・オットーの火花点火往復運動エンジン、ルドルフ・ディーゼルの圧縮点火、そしてフェリックス・ヴァンケルREの3本の柱を持つ。どれが、どれにとって代わるのではない。REに最適なのはスポーツカーである。」

まだ、山本さんからたっぷり時間をいただける時期でした。話題は、REはスプリント・レース向きか、長距離・長時間耐久型かに及びました。フジグラチャンでは、エンジンキング BMWに迫る強さを発揮した REでした。山本さん、「私はスプリント型だと思う。しかし、エクスパートの判断を聴こう。(傍の広報部員に)松浦君を呼んでくれ。」

松浦国夫さん、REレーシングのために生まれたようなエンジニア、即答が返ってきました。「耐久型です。」説明に山本さん、満足された様子でした。787Bの1991ルマン24時間優勝への道が開かれたと思います。

グッドウッド・スピード祭典に当時マツダ専務であったマーティン・リーチの運転で出走した1991ルマン24時間優勝車 787B。期せずして、当時フォード・グループの3ブランド・ルマン・ウイナーが並んだ。

1996年、フォードはマツダ筆頭株主として経営権を握り、社長をはじめ、幹部役員を送りこみました。フォードは、明らかに REをマツダの重荷と考えていたようです。マツダの人たちは、フォードから来た技術役員、最終的には社長にREの価値、魅力を説得、実証しました。英フォードでフォーカス、「モンデオなどの高性能モデル開発に従事した故マーティン・リーチ(マセラティ社長を経て中国EVスペシャリストヘ。後者では、フォーミュラE初年度チャンピオンシップ獲得)、彼の後継者フィル・マーテンス、そして当時フォード・グループ技術総帥リチャード・パリー-ジョーンズらを、RENESISプロトエンジンを搭載した実験車に乗せています。

フォード傘下期、マーティン・リーチ専務は、RX-7 FDの280ps高性能版市販と革新的2+2ドア・スポーツカー・コンセプト、”RX- EVOLV”を許可する。マツダREピープルは、フォードから来た幹部役員を動かした。RX-EVOLV完成全員集合の中央がリーチ専務。

リーチ専務は、フォード本社最高幹部にふたつの開発を直訴すべく、ヨーロッパからの帰途、回り道をし、デトロイト行き機内で某トップにふたつの直訴をしたと話していました。ひとつはRX-8開発、他はルマン復帰で、後者は却下されたと苦笑していました。

RX-EVOLVから発展した新RX-8プロト完成時にマツダ開発チームは、山本健一名誉顧問を試乗に招いた。その時の山本さんの目の輝き。

RX-8の発表は、マーク・フィールズ・マツダ社長期でした。RX-8開発陣は、完成したプロトタイプ試乗に山本健一・元会長を招きました。私が最後に山本さんにお会いした際のお話は、REと水素経済の相性でした。山本さんの中では、挑戦は絶え間なく続いていたのです。

山本健一・元マツダ会長と最後にお会いした時、山本さんは『絶え間ない挑戦』の例としてREと水素経済の相性を説かれた。水素REハイブリッド・コンセプトカー。

山口京一

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Source: clicccar.comクリッカー

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