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レジェンド・のむけん引退! D1参戦前からの功績を辿る【D1GP TOKYO DRIFT】

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満員の観客席では、のむけんへの感謝を表す黄色い小旗があちこちで振られ、レジェンドの引退にねぎらいの拍手が送られました。

2018年D1GP第8戦、このシーズンかぎりでの引退を表明していた“のむけん”こと野村謙選手のラストランとなりました。D1GP参戦だけでも18年間。彼のドリフト界での経歴はもっと前から続いています、そんなのむけんにどんな功績があるのかを振り返ってみましょう。

ときは1991年、福岡からわざわざ山梨のドリフト大会まで遠征してきた小柄な男のむけんは、ハゲヅラに「本日の主役」と書いたタスキをつけ、コミカルな動きで周囲にインパクトを与えながら、圧倒的な上手さで優勝してしまいました。

その後、ドリフトの上手さ、フリートークの面白さが注目され、自営業だったためにスケジュールの都合もつけやすいことから、さまざまなビデオオプションの企画に抜擢されたのです。イベントのレポーターや、レース参戦、またアメリカのちょっと変わった草モータースポーツへの参加など、いろいろな企画にのむけんは登場しました。

それにより、のむけんは自身のファンを増やしただけでなく、“ドリフト野郎”の存在を世に認知させていったといえるでしょう。

いっぽう、のむけんは面白いだけでなく、人格者でした。そのため、特に九州のドリフターたちはのむけんに敬意を表し、数百人にものぼる荒くれドリフターたちを平和的にまとめ上げる存在にもなったのです。

また、1990年代前半といえば、まだまだドリフト黎明期。評価の基準としては「美しい」とか「カッコいい」といった抽象的な言葉ばかりが使われていた時代でした。しかし、のむけんは「飛距離」と「角度」という具体的な尺度をキーワードとして打ち出して、みずからのドリフトをアピールしました。その後につながる競技ドリフトの審査基準に大きな影響を与えたともいえると思います。

のむけんは、当初は内装業の仕事をしていましたが、その後クルマ関係を仕事にするようになり、URAS(ユーラス)というショップを立ち上げます(ちなみにショップ名は「サル」を反対から読んだものです)。そして、いくつものオリジナルパーツを開発し、発売しました。

そのなかでも、もっとも画期的で衝撃的だったものは「知恵の輪」でしょう。

「知恵の輪」というのは、タイロッド(フロントタイヤに舵角を与えるために押したり引いたりするロッドのこと)の途中にかませるスペーサーです。ホントにただのスペーサーです。しかし、「知恵の輪」をつけると、フロントタイヤの切れ角が増すのです。それはつまり、ドリフトで角度をつけやすくなり、スピンしにくくなるということを意味します。

従来、フロントサスペンションの大手術でもしないかぎり実現できないと思われていた切れ角アップを、ごく簡単なパーツで実現してしまう大発明でした。とはいえ、あまりにも構造が簡単すぎるので、類似品が多数出まわり、のむけんはあまり儲からなかったそうです。なお、現在のドリフト競技車両はもっと切れ角を増やすために大手術を行っているものが主流です。

そのほかにもテコの原理を強化してサイドブレーキをききやすくする「タツノオトシゴ」や、リヤのサスペンションメンバーの取り付け角度を変えてトラクション性能を調整できる「パイナップル」などなど、常人が思いつかないような製品をいくつもリリースし、ドリフト愛好家から支持されてきました。

そして、2000年秋、全日本プロドリフト選手権の第1戦が開催されました。この大会が翌年の第2戦からD1GPという名称を与えられ、世界初のプロによるドリフトシリーズ戦となったわけです。のむけんも第1回からこの大会に参戦していますが、その第2戦、のむけんはパーツメーカーであるブリッツからオファーを受け、ドリフト史上初のパーツメーカーワークスドライバーとなったのでした。

しかし、この当時ビデオ出演やイベントなどで忙しかったのむけんは、ふだんまったくドリフトをしていませんでした。また、のむけんが使っていたダンロップタイヤも、阪神淡路大震災以降スポーツ性能の開発で後れをとっていた時期だったようで、のむけんはあまりいい成績が残せませんでした。

それでものむけんは影響力を持っていました。この時代のドリフトはスピード全盛期でしたが、スピード勝負では分が悪いと判断したのむけんは、角度とタイヤスモークで派手にアピールする走りに切り替えました。

これがめっぽうカッコよかったため、のむけんの走りは大人気となり、のむけんが使っていたER34型スカイラインは、中古相場が上昇したほどでした。また、それまでスピード系だったドライバーも、角度と白煙を採り入れたスタイルに変更していき、のむけんの走りを発端にしてドリフトのトレンドが変わりました。

やがて、のむけんも運転の勘を取りもどし、ダンロップタイヤの性能も向上すると、のむけんは上位に入ってくるようになりました。2004年に初優勝すると、2006年には熊久保選手と最後までチャンピオン争いを繰り広げ、わずかな差でシリーズ2位に終わりました。

この頃ののむけんの人気はものすごく、ビデオオプションのレポーターとしてのむけんがスーパーGTに取材に行くと、スーパーGTの選手よりもサインを求めて群がるファンが多いとか、しまいにはスーパーGTの選手までのむけんにサインを求めたといった話が聞かれました。

また、のむけんはこの時期D1GPの選手会長を務め、副会長の熊久保選手らとともに、選手のマナーや地位の向上に尽力しました。

しかし、2010年代に入ると、のむけんはマシンの戦闘力の面で後れをとるようになってきました。また、走りのスタイルが進化していくなかで練習時間の不足もひびくようになり、のむけんは上位入賞が減っていき、戦闘力のあるチーム体制も作れなくなってしまいました。

そんななかで2018年初頭、今シーズンかぎりでの引退を表明したのです。

けっきょく、のむけんがD1GPでチャンピオンを獲得することはありませんでした。しかし、のむけんはスタイルやマシンづくりや認知度の向上など、さまざまな面でドリフト界に多大な功績を残してきました。それがわかっているからこそ、ファンだけでなく関係者やほかの選手も、D1GP最終戦ではのむけんに感謝の言葉を伝えていました。とはいえのむけんもまだまだ50代前半。才能あふれるひとですから、またちがう形で活躍してくれることでしょう。

さて、このD1GP第8戦。単走はYUKE’S Team ORANGEの末永直登選手が優勝。

そして、追走トーナメントのベスト16でランキング2位の川畑選手が敗れた時点で、D-MAXの横井昌志選手のシリーズチャンピオンが決まりました。

決勝では、DIXCEL TOYO TIRESの内海彰乃選手とTOYO TIRES GLION TRUST RACINGの末永正雄選手が対戦。末永選手にミスが出て、内海選手がD1GP参戦18年目にして初優勝を遂げました。

 

(まめ蔵・写真提供:サンプロス)

【関連リンク】

D1グランプリの情報は公式サイト(http://www.d1gp.co.jp)へ。ビデオオプションの詳しい情報は、D1公式サイト(www.v-opt.co.jp)まで。

大会の裏側や車載映像、ドローンでの映像など、競技をより深く掘り下げたオフィシャル映像は、Vimeoで有料配信されています。『vimeo D1GP』で検索してみてくださいね。

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Source: clicccar.comクリッカー

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