前回までプレイバックしていました「OPT300ZX耐久レース挑戦記」。1st.ドライバーとして活躍したレーサー「山田英二」さんが、OPT&V-OPTファンの皆さまにはすっかりおなじみの「ターザン山田(ラーマン山田?)」さんっていうのはご存知の通り。
今回は、このレース挑戦でOPT誌初登場となったターザン山田さんの紹介記事をプレイバックしてみましょう。今ではすっかりヒール役として大活躍ですが(!?)、OPTデビュー当時は……(笑)!
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OPT・Zに乗る山田英二って知ってっか
山田英二 OPT・Z、No.1ドライバー
昭和37年4月25日生まれ(23歳)
最初から疑問があった。OPT300ZX耐久レースで、なぜエースドライバーに山田英二さんを選んだのか。レーサーはF2やGCで活躍するドライバーやプロダクションのトップクラスなど、たくさんいる。まだ若くて将来可能性のあるドライバーはこの世にゴマンといる。なぜだ……。
【Daiのコメント】
「このV6Zの場合、エンジンパワーとサスペンションのバランスが悪いはずだ。ニューZのレース用サスが出ていないこともあるが、300ps以上絞り出すVG30エンジンでは完全に振り回されるだろう。それをコントロールするってことは容易じゃない。その点、山田はF3とはいえ、あれだけ振り回して走っている。速さも必要だが、振り回すのに慣れているヤツ、それを考えてオレは山田英二を選んだのさ」
そう言われてあることを思い出した。日産がFISCOでテスト走行しているとき、ギンギンにコーナーを攻めているドライバーがいた。当時、そのドライバーが山田英二だったことは知らなかったが、一緒にいたDaiの頭の中にはきちんとインプットされて目をつけていたという。
また、地域性もある。都会に住んでいるのと田舎では。同じ技量のドライバーだったら、連絡がつきやすい都会のドライバーにお声がかかるというものだ。幸い、Daiの出身地は九州の片田舎。心の中には通じるものがあったのだろう…とは勝手な推測だが。
英ちゃんは耐久レースの話がきた時、どう思ったのか本音を聞いてみた。
「いやだなぁと思いました(笑)。F2とかF1を目指しているのに、何か横にそれる感じがありましたね。でも、なんでも経験ですから、それに自信はありました。1000kmの時も、他の人からはフラフラの走りに見えたらしいけど、あれはサスとタイヤのアンバランス。他のドライバーだったら全開のコーナリングで怖いからアクセルを戻すけど、踏んでコントロールしたわけです。サスがバッチリならカウンターも決まるが、あの場合はその点からも走り方がフラフラに見えたんでしょう。グリップ走行してても、それじゃ上のレベルで通用しませんから。
それと結果的には50秒台がベストだったわけですけど、後から追い上げてくるグループCカーなどの速いクルマに、譲り方が極端すぎました。かなり手前から相手に合図して先に行かせましたから。もし邪魔してブツケでもしたら大変でしたから、一番神経を使いました。もっと速く走れる自信もあったし出来ましたけれど……」。
【幼少時代の英ちゃん】
生まれも育ちも奈良県の山奥。周りは山に囲まれ、自宅から徒歩10分くらいのところに吉野川が流れる。3人兄弟の末っ子。性格は気弱で人見知りが激しい。が、正義感は人一倍強い。スポーツ万能で、特に山で鍛えた足腰は強じん。そのおかげで、運動会ではいつもトップ。中学はサッカー部に入部。初めからレギュラー入りし活躍する。勉強は苦手。
普通、1年はボール拾いと声援と相場が決まっている。それに奈良はサッカーや野球が盛んなところで、レベルは高い。1年でレギュラー入りした英ちゃんが羨ましい。
しかし、サッカーは1年でピリオド。このまま続けていてもプロになるわけでもない。かといって勉強でどれだけやれるか分からない。これから先、みんなと同じパターンの生活が面白くないし、いい加減に生きているように思えてきたという。
その頃、兄がセリカに乗っていてクルマに多少、興味があった。近くに鈴鹿サーキットはあるし、ひょんなきっかけから見に行こうと決心。次の朝4時に起き、始発電車でサーキットまで足を運ぶ。ちょうどF2の開催日だった。
【レーサーに目覚める日】
「凄いなぁ、と思ったと同時に自分はこれだ! これしかないと思いまして。とにかく感激しました。苦しいかもしれないがレースをやれるものなら本気で、しかも死ぬ気で自分のすべてをかけてやろうと決心しました。中途半端な気持ちではやりたくなかった。高校へ行かなかったのも、その分、家の仕事(運送業)を手伝い、お金を貯めてました。実際、お金が無いとレースはやれませんからね」。
その後、18歳になるとすぐ免許を取得。が、クルマを買える余裕はなく、兄の乗っていたセリカをお古でもらう。そして1ヵ月後、コツコツ貯めていたお金でオスカーFJ1600を新車で購入。当時、150万円也。すぐ鈴鹿サーキットを走る。
【初めてフォーミュラに乗ったとき】
「恐かったです。いくら広いサーキットでも初めてFJを走らせるんだから。ハンドリングはシビアだし、フォーミュラカーだからヘルメットに当たる風は半端じゃないし、本当に驚きました。必死にコントロールしているのは覚えてますが、どこをどうやって走ったのか、覚えていませんね。コーナリングなんかメチャクチャですよ。今だから笑って話せますけど、そのときは必死でした」。
ここまでくるのに、かなり時間がかかったという。田舎だったし、友達はみんな学校に行って運転など誰も教えてくれる人はいない。レーシングカーをどこで買えばいいのか、サーキットはどうしたら走れるのか、まったく分からなかった。そして、あらゆる本に目を通し、自分ひとりで何でもやるため、時間的にもかなり苦労したという。デビューまでの2年間は練習を重ねた。
しかし、資金的に月1度しか走れなかった。1回の走行でガソリン代、メンテナンス代、走行料で1ヵ月分の給料が無くなってしまったからだ。そして2回めの練習時に大クラッシュをしてしまう。(次回へつづく)
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というところで、続きは次回その2で! しかし、Daiちゃんの発掘能力、そこも凄いと思いませんか? Daiちゃんのそんなところ、尊敬するんですよね〜。
[OPTION 1985年8月号より]
(Play Back The OPTION by 永光やすの)
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Source: clicccar.comクリッカー